核超大国を歩く

田城明 著「核超大国をあるく–アメリカ、ロシア、旧ソ連」

–引用–

1991年に国際原子力機関(IAEA)は、事故の影響に関する調査リポートを発表し、その時点では「チェルノブイリ事故に伴う放射能汚染による人体への影響は出ていない」と発表した。調査団は汚染レベルの違う二つの地域を選び、1300余人に面接するなどして調査したという。だが、ゴフマン博士は、調査対象者数が限られていたり、高い被爆地域として調査したところの放射線量がそれほど高くないことなどを理由に、「科学的な疫学調査とはとても言えない」と批判する。「現に子どもたちの間に多くの甲状腺がんや免疫不全などが次々と起きている。それがリポートの間違いを明確に示している」と言うのだ。

–引用 ここまで–

核兵器大国とは自国民を放射能の危険に晒す被爆大国でもあった。

ゴフマン博士とは『人間と放射線 : 医療用X線から原発まで』の著者の方でしょう。

 

原子力と核兵器

たまたま見つけた「58年間ヒバクシャをみてきた」肥田舜太郎医師の講演録。

http://www.tanpoposya.net/jco930/4th_2003/930_4th_hida.htm

 

最後の部分に次の内容がある

—-ここから—-

ただし、お願いがある。核兵器の廃絶の戦いを一緒にやっていただきたい。これなしに原発だけを止めろって言っても止まるわけがない。核兵器をなくすというこの元が潰れない限り、原発は生きますから。ですからそういう意味で、世の中から核兵器をなくすというこの運動には皆さんも手を貸して一緒にやっていただきたい。このことをお願いして、私の話を終わります。

—-ここまで—-

京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生の講演でも原子力と核兵器の関係に言及されているのを聞いたことがある。

「こういうこと」

 

広瀬隆+たんぽぽ舎 著 「こういうこと   終わらない福島原発事故」

広瀬氏の講演記録になっている。氏の怒りの肉声が聞こえてくるよう。それ以上に悲しみが伝わってくる。

第3章の成澤宗男氏の文章から

– 引用–

1986年のチェルノブイリ原発事故直後、当時のソ連政府は事故現場から120キロ離れた現ウクライナ共和国の首都・キエフの子どもたちすべてを、3ヶ月半かけて各地に避難させた。なぜ日本で同じことができないのかと問うている間にも、私たちは無数の子どもたちの未来を奪いつづけているのかもしれない。

– 引用 ここまで –

「福島 原発と人々」を読んで

なかなか更新できないので、読んだ本の中から印象に残った文章を書き留めてゆこうと思う。

広河隆一 著 「福島  原発と人びと」

–あとがきから引用–

福島県から避難した一人の主婦は次のように言う。

「帰りたいって思わないわあけはありません……。でももうこんなことがあったんだから、全然違う人生、全く違う日本にならなきゃ意味がないと思うんです。これで元の鞘に収まってしまったら、何のための事故だったのって思うんです。」

–引用ここまで–

 

広河隆一 著「福島 原発と人びと」

 

自分と子どもを放射能から守るには

注文していた書籍が届きました。

「自分と子どもを放射能から守るには(日本語版特別編集)」

自分と子どもを放射能から守るには(日本語版特別編集)

未曾有の事態に政府や自治体の対応は後手に回っています。自分も、自分の家族も、自分で考えて判断し、守るしかありません。チェルノブイリ原発事故の後、放射能汚染と対峙してきた人々の声は重いと思います。

やりなおすこと

福島第一原子力発電所の事故がおきてから時間が経つにしたがってその影響の大きさが広がっているように感じます。取り返しのつかないことをしてしまった。事故が起きてしまった後では遅いのかもしれないけれども、原子力技術に疑問を感じつつなにもしてこなかったことが悔やまれます。

1980年代の前半、私は中学生でした。この時期に原子力発電について初めて知ったことは、原子力発電によって生み出される放射性廃棄物は危険な物でずっと長い将来に渡って管理されなければならないということでした。そのようなものに責任を持てるはずがなく、原子力技術を使ってはならないことは誰にでも容易に分かることです。少なくとも害悪を将来に残さないようにすることができる技術が確立するまでは手を出してはいけないこと。この一点のみにおいても原子力技術の是非を判断するには十分な理由です。けれどもそう思っていても、戦争に反対しても戦争がなくならないように。原子力技術の問題についても何もできないとも思ってきたのでした。最初からあきらめていたわけではないけれども、変わらない現実を前にして、いつの間にかあきらめて考えないようにしてきたのです。

3.11 があり、原発事故がおきて初めて、あきらめてきたことを後悔しました。どうしていたとて何もできなかったかもしれないけれど、考えることを避け、何もしようとしてこなかったことは変えられない事実です。

何を選ばなければないのか。それは難しいことではなく、「何のために」という動機にさかのぼれば明らかなことです。

インターネットで情報を集めはじめると、様々な運動がはじまっていることがよくわかりました。放射能から子供を守るために立ち上がったお母さんたち、原子力発電に対して”NO”を表明し始めた多くの人々の姿を見ました。

あの時から30年が過ぎてやっと振り返ることができた。自分が置いてきてしまった時を、忘れてきた人生をもう一度やり直してみたいと思うのです。同じ過ちは繰り返したくないから。そして子供たちに託せる未来を残すために。

 

miksys-blog 立ち上げ

2011年10月、福島第一原子力発電所の事故から半年以上が過ぎていました。特に情報を集めるといった努力をしていなかったのですが、ある違和感を感じていました。

事態は深刻さを増して様々な動きが出てくるだろう。福島県の大部分とその周辺地域から大規模な避難、または移住が余儀なくされるのではないか。しかしそのような報道はなく、西日本にいる限りこのまま事故のことは忘れ去られてしまうのではないかと感じられるほどです。友人に率直に「未だに福島に人が住んでいることが信じられない」と言うと、同じことを感じていることと政府の対応が酷いということを話してくれました。

政府の酷さはもちろんそうだけども、自分の命の問題なのだから事は急を要する。地震のときには津波で命を失った人たちがたくさんいる。明日津波が襲ってくるとわかっていたらまず命を守るために逃げるでしょう。放射能の場合は目に見えない、すぐには結果が現れない。けれど10年後もしかしたら死ぬかもしれないと思えば、明日やってくる津波と事態の緊急の度合いは変わらないはず。そう思ってもそれを口にすることはありませんでした。なぜなら私は安全なところにいて、実際に放射能レベルが高い地域に住んでいる当事者ではないから。苦渋の決断をするのは試練に会っている福島やその周辺の地域の人たち。何もできない自分が軽々しく口にしてはいけないことだろう。

しかし、時間が過ぎるばかりで、いったいどうなっているのかがまったく見えてこない。政府の対応云々もそうだけども、多くの人がどのように考え、感じているのか知りたい。自分が感じていることを共有したい。受身では何も分からない。

試験的に始めた Facebook, Twitter で原発事故に起因する放射能災害について調べ始めました。 なぜ Twitter かというと、3月の東日本大震災のときに当時 Google が提供していた Twitter のリアルタイム検索で情報を得、非常に役に立った経験からです。Facebook はどんな使い方をするのかもわからず友人からの勧めで始めました。Twitter は長い文章は書けないし、Facebook では情報の記録やまとめをしにくい。そこで自分でサイトを立ち上げることにしました。自分のための記録に過ぎませんが、なんらかの役に立つことを願い公開します。

このブログや別のページの情報(今はただのリンク集でしかない)をみる人はほとんどいないかもしれない。けれどこういった小さな活動が自分自身にそして世界にどう影響するのか,その可能性を試してみたい。少しでも自分と世界が変わることを願い始めてゆきます。